高松地方裁判所 平成6年(行ウ)8号 判決 1997年1月14日
原告
今田アヤ子
右訴訟代理人弁護士
馬場俊夫
被告
丸亀労働基準監督所長
川股育雄
右訴訟代理人弁護士
河村正和
同
柳瀬治夫
右指定代理人
早川幸延
外五名
主文
一 被告が原告に対し平成二年一一月三〇日付けでした労働者災害補償保険法に基づく療養補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第一 原告の請求
主文と同旨
第二 事案の概要
一 争いのない事実
1 原告の経歴
原告は、昭和一四年七月一日生で、同四七年一月、善通寺市農業協同組合(以下「農協」という。)に電話交換手として就職し、同五一年六月から同五七年五月まで農協吉田給油所(香川県善通寺市上吉田町六丁目所在のガソリンスタンド。以下「給油所」という。)に配属され、その後、支所勤務を経て、同六〇年一〇月から再び給油所勤務となり、事務及びガソリン給油の業務に従事していた。
2 原告の勤務状況
平成二年二月当時の原告の給油所職員としての業務は、ガソリン給油作業及び納品伝票や日計表の整理事務を内容としていた。
当時の給油所職員の勤務時間は、原則として、月曜日から金曜日までが午前八時三〇分から午後五時までで、昼に一時間の休憩があり、土曜日が午前八時三〇分から午後一時までで、第二及び第三土曜日、毎日曜日並びに祝祭日が休日となっていた。そして、変則的な勤務形態として、早出(午前七時から午後三時三〇分まで)、遅出(午前一〇時三〇分から午後七時まで)、土曜日直(午後一時から午後七時まで)、休日日直(午前八時三〇分から午後五時まで)等があって、職員一人につき、一か月に早出及び遅出がそれぞれ二回程度、休日日直が一回程度あり、二か月に一回程度土曜日直があったが、土曜日直及び休日日直についてはそれぞれ代休が与えられていた。原告の平成二年一月の勤務状況は、出勤日が二一日(このうち二日は休日出勤)、休日が一〇日(このうち二日は代休)であり、同年二月のそれは、出勤日が一九日(このうち一日は休日出勤)、出張が四日(香港への研修旅行)、休日が五日であった。
3 原告の健康状態
原告は、平成元年二月二日に健康診断を受けた際、身長154.1センチメートル、体重62.5キログラムで、「太り気味」との判定を受け、また、総コレステロール値が高いことから、「軽い高脂血(又はHDLコレステロール低下)が考えられる」との判定も受け、更に、「リュウマチ反応が軽度陽性」との判定も受けており、過去の健康診断においても、毎回、総コレステロール値が高いこと又は高脂血症の指摘を受けており、また、昭和六一年三月一八日の健康診断では、「軽い高血圧症」との判定を受けている。
4 疾病の発症
原告は、平成二年二月二八日午後一時三〇分ころ、給油所において、軽四輪乗用車に給油ノズルで給油作業中、同車の給油口から吹き返したガソリンを顔面及び頭部に浴びたため、事務所に入り給油作業の交代を同僚に求め、炊事場において顔面及び頭部を洗っているうち、意識が朦朧となり、救急車で善通寺市仙遊町二丁目所在の国立善通寺病院に収容され、翌三月一日に行われた頭部CT検査の結果、頭蓋内出血が認められ、左被殻出血(以下「本件疾病」という。)と診断された。
5 被告の療養補償不支給決定等
(一) 原告は、被告に対し、本件疾病は業務上の事由によるものであるとして、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)一二条の八に基づき療養補償給付を請求したところ、被告は、本件疾病は業務上の事由によるものとは認められないとして、平成二年一一月三〇日付けで右療養補償給付を支給しない旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。
(二) 原告は、本件処分を不服として、香川県労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同審査官は、平成三年一〇月一四日付けでこれを棄却した。原告は、更に、労働保険審査会に対して再審査請求をしたが、同審査会は、同六年六月二七日付けで再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同裁決は、原告に対し、同年七月一四日到達した書面により通知された。
二 争点
本件疾病が労災保険法一二条の八、労働基準法(以下「労基法」という。)七五条の業務上の疾病に該当するか、すなわち、本件疾病に業務起因性が認められるか否か。
1 原告の主張
(一)(1) 一般に、労働者の基礎疾患が原因となって疾病が発症した場合であっても、業務が基礎疾患の増悪を早めた場合又は業務と基礎疾患が共働原因となって疾病を発症させたと認められる場合には、業務と疾病との間に相当因果関係が認められるべきである。
(2) また、業務の過重性は、当該労働者を基準にして、個別・具体的な基礎疾病等の状況に即して判断されるべきである。
(二)(1) 原告は、給油所における業務のほかに、農協職員として、毎月、右業務終了後に開催される定例職員会議に出席して各種の推進業務(石碑・仏檀の特別推進、紳士服の特別推進、無水鍋の特別推進、パールライスの特別推進、自動車年間一台運動、家の光前納年間予約購読推進、特別貯蓄推進、年金共済特別推進等)について協議し、その結果、一定の目標値と担当地区が定められてノルマを課され、これを達成するため、夜間・休日に、担当地区農家や友人、知人、親戚等を訪ねて勧誘するなどし、自分が勧誘して締結した共済契約については、担当地区とは関係なく、夜間・休日に集金業務等を行っていた。
(2) そして、原告は、本件疾病発症の約二週間前に、前記研修旅行から帰ったが、その時、過度の疲労状態に陥っていて、翌々日の朝まで床を離れずに寝入っており、また、その旅行のしわ寄せで、各種の推進業務、共済契約に係る集金等を給油所の業務終了後の夜間や休日に行わざるを得ない日々が続いた。
(3) 更に、原告は、本件疾病発症の前日である平成二年二月二七日、給油所の業務を終えて午後七時三〇分ころ帰宅し、引き続き共済契約に係る集金に行くに際し、普段は自らバイクを運転して集金に回っていたにもかかわらず、疲労のためこれができないとして、夫の運転する車に同乗して集金先二か所を訪れ、午後九時三〇分ころ帰宅した。
(4) 以上のように、原告は、給油所の業務時間外である夜間・休日に農協職員としての他の業務を反復継続し、その程度は前記研修旅行から本件疾病発症の前日までの間において高まっていたため、精神的肉体的疲労が蓄積していた。
(三) 原告は、右のように精神的肉体的疲労が蓄積していた状態で、給油作業中、突然、約一リットルものガソリンを顔面に浴びるという予測し難い異常な事故に遭遇し、これによって強い肉体的負担と高度の精神的緊張を余儀なくされ、その結果、基礎疾患(軽度の高脂血症による脳動脈硬化症等)が急激に著しく増悪し、基礎疾患の自然的経過を超えて本件疾病を発症したものである。
(四) よって、原告の農協における業務と本件疾患との間には相当因果関係が認められるというべきである。
2 被告の主張
(一)(1) 労災保険法に基づく保険給付を認める前提としての相当因果関係を肯定するためには、疾病が当該業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化と認められる関係が存在することが必要であり、その判断に当たっては、当該業務が当該疾病に対して相対的に有力な原因となっていることが必要である。
(2) そして、相対的に有力な原因となったか否かは、当該労働者を基準として考えるべきではなく、一般の同種・同僚労働者を基準として判断すべきである。
(二)(1) 労災保険法に基づく保険給付の対象となる業務上の疾病の範囲に関しては、労基法七五条二項に基づいて定められた同法施行規則三五条別表第一の二(以下「別表」という。)が規定しているが、本件疾病が別表第一号ないし第八号のいずれにも該当しないことは明らかであるから、これが業務上の疾病と認められるためには、別表第九号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当することを要するところ、労働省労働基準局長は、同号の該当性の判断基準について、平成七年二月一日付け基発第三八号通達「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」(以下「認定基準」という。)を示し、右規定では明らかにされていない脳心疾患の業務起因性の判断基準等を行政通達の形で明示している。
(2) 認定基準においては、次の①及び②のいずれの要件も満たす疾患を、別表第九号の「業務に起因することの明らかな疾病」として取り扱うものとしている。
① 次に掲げるイ又はロの業務による明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められること。
イ 発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)に邁進したこと。
ロ 日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと。
② 過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が、医学上妥当なものであること。
(3) 認定基準にいう「過重負荷」とは、脳・心疾患の発症の基礎となる病態(血管病変等)をその自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ得ることが医学経験則上認められる負荷をいい、ここにいう自然的経過とは、加齢、一般生活等において、生体が受ける通常の要因による血管病変等の経過をいう。
また、「異常な出来事」とは、具体的には、
① 極度の緊張、興奮、恐怖、驚がく等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常事態
② 緊急に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常事態
③ 急激で著しい作業環境の変化 をいう。
更に、「日常業務に比較して、特に過重な業務」とは、通常の所定労働時間内の所定業務に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務をいい、ここにいう客観的とは、当該労働者のみならず、同僚労働者又は同種労働者(以下「同僚等」という。)にとっても、特に過重な精神的、身体的負荷と判断されることをいうものであり、かつ、この場合の同僚等とは、当該労働者と同程度の年齢、経験等を有し、日常業務を支障なく遂行できる健康状態にある者をいう。
(4) また、業務による過重負荷と発症との関連性を時間的にみた場合、医学経験則上発症に近ければ近いほど影響が強く、発症からさかのぼればさかのぼるほど関連は希薄となるとされているので、認定基準では、次の①ないし③に示す業務と発症との時間的関連を考慮して、特に過重な業務か否かの判断を行うこととされている。
① 発症に最も密接な関連を有する業務は、発症直前から前日までの間の業務であるので、まず第一にこの間の業務が特に過重であるか否かを判断すること。
② 発症直前から前日までの間の業務が特に過重であると認められない場合であっても、発症前一週間以内に過重な業務が継続している場合には、血管病変等の急激で著しい増悪に関連があると考えられるので、この間の業務が特に過重であるか否かを判断すること。
③ 発症前一週間より前の業務については、この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断し難いが、発症前一週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には、発症前一週間より前の業務を含めて総合的に判断すること。
(5) 右認定基準に先立ち、労働省労働基準局長は、昭和三六年二月一三日付け基発第一一六号「中枢神経及び循環器系疾患(脳卒中、急性心臓死等)の業務外認定基準について」を示し、その後専門医師等で構成された「脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する専門家会議」の検討に基づいて、昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」を示していたが、更にその後の医学的知見等を踏まえ、「脳・心臓疾患等に係る労災補償の検討プロジェクト委員会」において行われた検討結果に基づき、昭和六二年第六二〇号通達のうち「業務に起因することの明らかなもの」について、前記のとおり認定基準を定めたものであり、認定基準は行政通達であって法規ではないものの、現在における医学的最高水準の知見に基づいているものであり、認定基準に合致しない態様からの発症の可能性を完全に否定し去ることはできないとしても、認定基準に合致しないものについては、現段階においては、当該業務が脳・心疾患発症の原因として、医学経験則上業務起因性を認めることは困難というべきである。
(三)(1) 原告の業務は、ガソリン給油作業及び伝票等の整理事務であり、また、所定労働時間外労働はなく、休日も確保されており、本件疾病発症前一週間、更にそれ以前も、日常業務に比較して特に過重な業務に就労していたとは認められない。
(2) 仮に原告が前記1(二)のような業務に従事していたとしても、その内容からして特に過重な業務とはいえない。
(3) 原告は、給油作業中、自動車の給油口から吹き返したガソリンを頭部、顔面に浴びたのであるが、給油作業中ガソリンが吹き返すという事故は、それまでにも度々あったことであり、全く予期しない出来事とはいえず、また、頭部、顔面にガソリンを浴びたことから、その瞬間にハッとする程度の多少の驚きはあったことは推認できるが、この程度の驚きは日常生活においても通常起こり得るものであって、これによって強度の精神的負荷を引き起こした、あるいは、緊急に強度の身体的負荷を強いられたものとは認められない。原告は、ガソリン被浴後、作業の交替を同僚に頼み、炊事場でガソリンを洗い流すなどの適切な事後措置を迅速かつ冷静に行っており、このことからもガソリンの被浴が極度の精神的又は肉体的負荷を与える出来事とは認められない。
三 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録・証人等目録に記載のとおりであるから、これを引用する。
第三 争点に対する判断
一 業務起因性の判断基準について
1 労基法及び労災保険法による労働者災害補償制度の趣旨は、使用者が被用者を自己の支配下において労務を提供させるという労使関係の特質から、業務に内在ないし随伴する危険性が現実化して被用者に傷病等をもたらした場合には、使用者の過失の有無にかかわらず、その危険を負担させて損害填補の責任を負担させようとするところにあると解されるところ、労基法及び労災保険法が労災補償の要件として、労基法七五条、七九条等に「業務上負傷し、又は疾病にかかった」と、労災保険法一条に「業務上の事由により」と規定するほか、何ら特別の要件を規定していないことからすると、業務起因性があるというためには、業務と疾病発症との間に相当因果関係の認められることが必要であり、かつ、これをもって足りるものと解するのが相当である。
2 被告は、脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する業務起因性については、別表第九号に定める「その他業務に起因することの明らかな疾病」と認められることが必要であり、また、右認定に関しては、認定基準に該当する事実の存在が必要である旨主張するが、労基法七五条二項が業務上の疾病の範囲を命令で定めることとした趣旨は、業務上の疾病に関する相当因果関係は傷害の場合ほどに明確でないため、その点を命令で明らかにしようとしたことにあり、これによって相当因果関係の認められる範囲を拡張したり、制限しようとしたものではないと解されるし、また、別表第九号の認定基準は、あくまで下部行政機関に対する運用のための通達であって、行政の適正、迅速処理のための判定基準を示したものにすぎないから、相当因果関係の存否の判断を直接拘束するものではない。
もっとも、認定基準が脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する専門家会議の報告に基づき定められたことなどの経緯に照らすと、認定基準は業務起因性についての医学的、専門的知見の集約されたものと理解できるから、本件のような脳血管疾患の発症に関する相当因果関係の有無を判断するに当たっては、認定基準の示すところを考慮すべき必要性は否定できない。
3 相当因果関係の判断基準について
そこで、認定基準の示すところを考慮しつつ、業務と本件のような脳血管疾患等の発症に関する相当因果関係の有無を判断するに当たり基礎とされるべき事実と基準については、次のように考えるのが相当である。
(一) 前記のような労災補償制度の趣旨よりして、当該業務がその業務に内在ないし随伴する危険性の発現と認めるに足りる内容を有すること、すなわち当該業務が特に過重なものと認められるものであることが必要である。そして、脳血管疾患は業務そのものを唯一の原因として発症することはまれであり、加齢等複数の原因が競合して発症する場合が多いことに鑑みれば、単に業務が脳血管疾患等の発症の原因となったことが認められるだけでは足りず、当該業務が加齢その他の原因に比べて相対的に有力な原因と認められることが必要というべきである。
(二) そして、労災補償制度の趣旨等からすれば、右業務の過重性の判断は、客観的になされるべきではあるが、多くの労働者が高血圧その他健康上の問題を抱えながら日常の業務に従事しており、高齢化に伴いこうした問題を抱える者の比率が高くなっている社会の実状に照らせば、全くの健常者である同僚又は同種労働者を基準とするのは相当でなく、基礎疾病を有するものの勤務の軽減を要せず通常の勤務に就き得る者、いわば平均的労働者のうちで最下限の健康状態にある者にとって危険といえるかどうかという観点から判断するのが相当である。
二 本件疾病の発症と業務との相当因果関係
1(一) 本件疾病発症前の原告の健康状態
本件疾病発症前の原告の健康状態は、前記第二の一3のとおりであるが、証拠(乙一一の1ないし5)によれば、原告は、平成元年の健康診断では軽い高脂血症(又はHDLコレステロール低下)を指摘されていたが、受診・治療を要するとまではされておらず、また、昭和六一年の健康診断で指摘されていた軽い高血圧症もその後の健康診断では指摘されていない事実が認められ、したがって、原告は本件疾病発症当時も通常の勤務に十分耐え得る程度の健康状態にあったものと認められる。
(二) 本件疾病発症前の原告の業務の内容及び疲労状況
原告の給油所職員としての業務内容は、前記第二の一2のとおりであるが、証拠(甲四の1及び2、五、証人今田忠)によれば、さらに次の事実が認められる。
(1) 原告は、給油所における業務のほかに、農協職員として、毎月、右業務終了後に開催される定例職員会議に出席して農協の共済事業、経済事業等の各種の推進業務について協議し、その結果、一定の目標値と担当地区が定められてノルマを課され、これを達成するため、夜間・休日に、担当地区農家や友人、知人、親戚等を訪ねて勧誘するなどし、自分が勧誘して締結した共済契約については、担当地区とは関係なく、夜間・休日に集金業務等を行っていた。
(2) 原告は、平成二年二月一四日から同月一七日まで、研修旅行として香港へ出張したが、旅行から帰った際には、過度の疲労状態に陥っていて、帰国した翌々日の朝まで床を離れずにいた。また、右出張のしわ寄せで、各種の推進業務等を給油所の業務終了後の夜間や休日に行わざるを得なくなり、趣味のスポーツも休み、本件疾病発症の前日である平成二年二月二七日には、給油所の業務を終えて帰宅した後、引き続き共済契約に係る集金に行かなければならなかったが、夫に疲労を訴え、普段のように自らバイクを運転して集金に回ることができないとして、夫の運転する車に同乗して集金先二か所を訪れ、午後九時三〇分ころ帰宅した。
(3) 原告の職場では、同年三月一日から事務が電算化されることになっており、原告もそのための講習を受けて、対応に腐心していた。
(三) 原告のガソリン被浴の状況
証拠(甲一、三、乙二一ないし二五)を総合すれば、原告のガソリン被浴の状況については、次のとおり認められる。
(1) 原告は、平成二年二月二八日、昼食後給油作業に入り、顧客の軽乗用車の給油口に給油ノズルを差し込んでおいてから客にカードを返しに行き、再び給油口に戻った時にガソリンのにおいが強くするので変だと思い、ノズルの様子を見たところ、車の給油口からガソリンが吹き返して顔や身体にかかり、鼻や目が非常に痛くなって我慢できないほどだったため、同僚に作業の交替を頼み、事務所の湯沸し器の蛇口から温水を出して顔等を洗っているうちに意識を失った。その際原告が苦しそうなうめき声を出したことから、様子を見に来た同僚がこれを発見し、原告は直ちに救急車により国立善通寺病院に搬送された。
(2) 原告は約一リットルのガソリンを、頭部、顔面を中心に全身に被浴してその一部を吸入しており、病院に搬送された当時は呼びかけに対し開眼するがすぐ反応しなくなる状態で、緊急治療にあたった医師はガソリン吸入による影響も否定できないと診断している。
2 以上の事実を基礎に本件疾病発症と業務との因果関係につき判断する。
(一) 前記認定のとおり、原告は、給油所の業務のほか、農協の共済事業、経済事業等の各種の推進業務に従事していたが、右業務がそれ自体過重なものであったと認めるに足りる証拠はない。
しかし、前記(二)で認定した事実によれば、原告は、本件疾病発症の約二週間前の香港出張により極度に疲労し、右疲労を蓄積させたまま、出張に伴う事務の停滞のため帰国後は農協の事業推進業務を集中して行うことを余儀なくされ、さらに三月からの業務の電算化に対する精神的負担も加わって、本件疾病発症当時は相当程度疲労を蓄積させた状態にあったことが認められる。
(二) 前記認定の本件疾病の発症経過及び証人行天徹矢の証言によれば、本件疾病は本件ガソリン被浴を原因として発生したものであることが認められる。同証人の証言によれば、脳出血の場合は出血後直ちに意識障害を生じるものではなく、数分程度経過後に症状が出る場合が多いことが認められるから、本件ガソリン被浴後意識障害に至るまでの間に数分間の間隔がありこの間原告がガソリンを洗い流すなどの合理的行動をとっていることは右認定を左右しない。
ところで、証拠(甲二、乙三の1、四の2、五、七、二二、二四、証人行天徹矢)によれば、給油所において業務中にガソリンが吹き返すこと自体はしばしば発生していることが認められるけれども、他方同証拠によれば、ガソリンが目や鼻に入った場合は目を開けられないほどの痛みがあること、吹き返し事故の多くは衣服にガソリンがかかる程度のものでたいしたものではなく、原告自身も手足にガソリンがかかった程度の経験しかないことが認められる。右事実に前記認定のとおり原告が被浴したガソリンの量は約一リットルと多量であって、しかも原告は給油口をのぞき込んだ状態で、頭部、顔面を中心として全身にガソリンを浴びていて、しかもかなりの量のガソリンを吸入しており、直後に診察した医師はガソリン中毒を疑うほどの状況であって、このような状況でガソリンを浴びることは給油所においてもしばしば発生する事態ではないと考えられること及びガソリンが目や鼻に入った場合は激しい痛みが発生することに照らせば、本件ガソリン被浴は原告に極度の精神的緊張をもたらす異常な事故であったと認められる。そして、前記認定のとおり原告は本件疾病発症当時軽度の高脂血症を指摘されていたにとどまり、それ自体で本件疾病を引き起こすに足りる程度の基礎疾患は有していないことを考慮すれば、平均的労働者のうちで最下限の健康状態にある者にとって危険か否かという前記基準に照らしても、本件ガソリン被浴は本件疾病発症の相対的に有力な原因となったものと認めるのが相当である。
この点、被告は、原告がガソリン被浴後、作業の交替を同僚に頼み、炊事場でガソリンを洗い流すなどの適切な事後措置を迅速かつ冷静に行っていることから、ガソリンの被浴は極度の精神的又は肉体的負荷を与える出来事とは認められないと主張するが、突発的事故により目や鼻に激しい痛みを生じた場合一刻も早くその原因を除去しようとするのは当然の行動というべきであるから、原告が右のような行動に出たことをもって当該事故の与える精神的肉体的負荷が軽かったということはできない。
(三) 以上のとおり、本件疾病は軽度の高脂血症という基礎疾病が、業務上の香港への研修旅行等による疲労の蓄積及び業務中のガソリンの被浴という過重な事故により自然的経過を超えて著しく増悪した結果であると認めることができるから、業務と本件疾病との間には相当因果関係が認められるというべきである。
第四 結論
以上のとおり本件疾病は、業務に起因するものと認められるから、業務起因性を否定した本件処分は違法であって取り消されるべきである。
よって、原告の請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官山脇正道 裁判官橋本都月 裁判官佐藤正信)